
湘南プロヴァンス
書架に並んだ一冊の雑誌。「湘南プロヴァンス」と大書きされたタイトル。紺碧の海、江ノ島、そして富士山。表紙一面を絶景のグラビアが飾っている。
三十年前。夏の日の週末。社会人になりたての僕は、仕事で多忙な日々を送っていた。慣れない東京で、社会の右も左もよく分からず、くたくたに疲れ切っていた。独身寮で過ごす週末、近所の本屋での立ち読みが唯一安らげる時間となっていた。
その日、いつものように本屋に立ち寄った僕の目に飛び込んできた雑誌の表紙。思わず息を呑み、その雑誌を衝動買いした。
それは、ライフスタイルやアート、カルチャーを扱う情報誌の特集号だった。湘南と南仏プロヴァンスという二つの地域で、地元の食材、お酒、自然、文化をこよなく愛し、人生を謳歌しているローカルを取り上げ、その共通性を紹介していた。
地場の食材に舌鼓を打ち、サーフィンやヨットなどマリンスポーツに興じる湘南の人々。同じく地元のオリーブやワインを愛し、花畑が広がる牧歌的な風景の中で暮らすプロヴァンスの人々。
大阪の下町育ち。それまで湘南に縁もゆかりも無かった僕が湘南と一本の糸で結ばれた運命の瞬間。そして湘南探求の旅がスタートする。
仕事の合間を縫っては、湘南の不動産情報を集め、後に妻となる彼女とのデートも湘南モードに移行。友人から中古のサーフボードを譲り受け、鵠沼にあるサーフショップのスクールに参加。人生初のテイクオフ。子供の時分以来、久しく味わっていなかった解放感。ガシャッ!という音と共に心のロックが一瞬で解けた。制限解除。。。湘南の扉を開いたその先に、サーフィンの世界が広がっていた。こうして湘南と僕を結んだ一本の糸は、サーフィンを軸に少しずつ紡がれていった。
数年後、僕らは結婚し、新婚生活を鵠沼で始めた。新居は、134号から一本入った3階建ての古びたマンション。ベランダから、海と江ノ島が眺められる。東京にある会社まで片道2時間かかったが、通勤時間は全く苦にならない。毎週末のサーフィン、浜辺の散歩とビーチクリーン。相模湾で上がる美味い魚。海辺の生活にどんどん魅了されていく。週末が待ち遠しくて仕方がない。
鵠沼から始まった僕らの生活は、その後、茅ヶ崎へ、そして辻堂へと湘南海岸を東へ西へと舞台を移し、益々、湘南ライフの深みにはまっていく。海辺の地の利を最大限に活かしたサーフィンに至っては、最初は、おっかなびっくり若葉マークの夏場限定&週末限定だったものが、平日でも早朝に1ラウンドこなしてから出勤するようになり、やがて、大晦日に乗り納め、正月3日に乗り初めと、年中行事に変わっていった。
正に「湘南プロヴァンス」、僕のライフスタイルを表すのに、これほど打って付けの言葉はない。
週末の夕暮れ。夕陽できらめく海を背に、サーフィンを終え疲れた身体で家路に着く浜辺、足の裏に感じる冷たい砂地が心地良い。
競争では味わえない至福のひと時。僕は、これからもこの海辺の生活を愛し続ける。